昭和49年11月09日 朝の御理解



 御理解 第50節
 「とかく、信心は地を肥やせ。常平生からの信心が肝要じゃ。地が肥えておれば、肥をせんでもひとりでに物ができるようなものぞ。」

 とかく信心は地を肥やせ。信心の地を肥やすと言う事は、どう言う事だろう。これは痩せた土地が段々肥えた土地になる。それにはそこの土地にあった肥料を施してやる。と言う事ですが、信心の根肥しというのは、やはり心を豊かに心を肥やして行く事だと思うのですが、どう言う様な事が、その心の根肥しになるか。自分の心掛けで様々に根肥しをさせていただく事が出来ると思うんです。
 世の中には本当に惜しいなぁ、玉に瑕だと言った様な事がありますね。あの人は本当に、頭も良いし仕事も出来るし、けれどもたったこれ一つが玉に瑕だと言った様な。それが自分の身近な者であったりする場合に、歯がゆい思いを致します。それが他人の場合なんかは、玉に瑕だですみますけれども。それが自分の身近な者それが例えば、自分の子供であるような場合などは、この人はもう言う事はないんだけれども、これ一つ守ってくれると、これ一つ実行してくれると。
 ここば一つ改まってくれるともう、愈々言う事はないんだけれども、という時に私は歯がゆい思いと言うのは、そういう時するもんだと思うんです。もう全然出来んならね。もう歯がゆい思いも致しませんよ。諦めますよ。もうあれは幾ら言うて聞かせても分からんあら詰まらんと。と言う様な者の上には、歯がゆい思いなんかは致しません。けれどもあれも出来これも出来る。たったこれ一つが出来ん。
 本当に残念だもう一押しなんだけれども、歯がゆいとそういう時に歯がゆいというのです。特に親が子を見る目というものは、矢張り良かれがしとしか思いません。幸せになってくれよがしとしか思いません。だからこの人にこういう、例えば癖があったんじゃ幸せになれんとこう思うたら、親が矢張りそこの所を歯がゆく思うのです。皆さんの所にそういう歯がゆい思いをなさる様な事は無いでしょうか。
 家の家内はでもいいです。家の主人はでもいいです。本当にこれが身近な者であればあるほど、その歯がゆさというものは切実です。例えば私から言うと私と皆さんの場合、本当に素晴らしい良い信心が出来る。所がこの人はここが、もういっちょ出来ると、いよいよ鬼に金棒だけれども残念。あそこがもう一押し出来ると。それは私は皆さんの上にも感ずる事があります。
 そこでです今日はどう言う様な事が、心の根肥しになるかと言う事は、それは様々ございます。嫌な事嫌な問題例えば肥料というものは、言うなら汚いものだ。それがかえって肥料になる。だから肥料にすると言う事は、色々肥料の手立てというか肥料の材料というものはありますけれども。今日私が皆さんに聞いて頂きたいのは、歯がゆい事だという、その事をね一つ心の肥料。信心の根肥しにして頂きたいと思います。
 そこでです家の娘は家の嫁は、又は家の息子は家の主人は、家の家内はと家の親はと言うような場合もあるかも知れません。それが切実に本当に歯がゆいと思うて、やれれるほどしに、それは身近なんです実を言うたら。それはあかの他人で、別に関係のない人であったらです。ほんにあの人ばっかりは玉に瑕だと、惜しいなぁと言うだけで、そう切実に歯がゆさは感じないでしょう。それが身近であればあるほど、歯がゆいなぁとああ歯がゆいことじゃ、もう一押しだけれどと思うでしょう。
 あれも出来これも出来るからこそ、なおさら歯がゆいのです。そこでその歯がゆさをです、今日は皆さん信心の肥料にさせて頂いたら、その事もまた有難いと言う事になるだけでは無しに、そこからです。新たな神様の働きが生まれてきて、その身近に切実に、歯がゆいと思うておった彼も、彼女もいうならばおかげを頂く事になりましょうし。自分自身の信心の根肥しにもなると言う事ですから、一挙両得なんです。だから歯がゆいと思うておっただけではいけんのです。
 私はその事を今日この五十節から感じておりましたら、神様から神という字をこう、それぞれに頂いたんです。ね辺(示す辺)のネ、カタカナのネが書いてある。そしてこちらに申すという字が書いてある。そういう時にです。ただ歯がゆいな歯がゆい事じゃなぁと思うのは、寝ながら言うておるとと同じ事。楽しながら歯がゆい事じゃなぁと言うとっただけでは、いつまでたっても歯がゆい事であるし、彼もおかげ頂かないし、こちらも根肥しにはならんのです。歯がゆい歯がゆいと思うとった。
 歯がゆいと思うておる事は、根肥しにはならんです。返って心が痩せるのです。心がイライラしたり歯がゆい思いがすると言う事は、返って心が痩せるのです。だからそれを寝ながら言うではなくてです。本当にそれが切実にそれを歯がゆいなぁと思うなら、自分自身が改まって自分自身が一修行させてもろうて、その事をもう一押しと言う所を押して加勢するような信心が出来る時、初めてそれがおかげに所謂成就と言う事になるだけではなくて、自分自身の心信心が肥える事は、絶対だと思わせて貰います。
 今日はそこん所を一つ聞いて頂きたい。そこん所を一つ実行して貰いたい。皆さんあるでしょうもん。歯がゆいなぁと思う所があるでしょう。家の主人は家の家内はとこの人が、もう一押しここが出来ると、と思う所があるでしょう。それを歯がゆいなぁと、思っておるだけでは肥えません。肥える所か返って心は痩せていく。ですから寝ながら思うておるではなくて、一つ起き上がって本気で、それが切実であれば、切実であるほどにです。その人の、例えば子供なら子供の上に。
 歯がゆい事じゃなぁここがもういっちょ出来るとと思うと言うのではない、歯がゆいと思うのではない。自分自身の改まり自分自身の修行。自分自身が改まって、その事を願わせてもらうと言う様な生き方からです。心はいやが上にも肥えてくる。そういう生き方こそが徳を受ける。私は今日は徳育と言う事を頂いた。徳によって育てると言う事なんです。もう何が何といってもです。これが一番です。
 先日からマルショウの父兄会の時に、教育と言う事を頂いた。教育と言う事は教え育てることだと。教える事は出来るけれども、教えただけでは只教だけ。育と言う事は育てるという事。育てると言う事は自分自身が身を持ってです。それを行じていくという、自分自身が育っていくと言う事。それが教える者に対する、育てる事の働きをする。これも私は、今から思いますと、今日のこの御理解から頂きますと、はぁそういう生き方からです。徳が受けられる。
 今日私が申しますように、歯がゆいなぁと思う実に歯がゆい事だと思い続けておっただけではですおかげにはならん。自分の心もそれでは痩せる。そこでそれが切実であればあるほど、思えば思うほどです。一つその人のために自分が改まり、自分が研いていき自分がそのために一修行さしてもらうという気持ちにならせて頂いたら。そういう私は頂き方こそが、信心を肥やすと言う事だというふうに思うです。自分の心が肥えていく。そこから、ひとりでに物が出来てくる。
 もうこれは徳の世界です。そしてほんなら歯がゆいなぁと思うておった、子供なら子供の事の上にもです。本当に痒い所に手が届くようなふうに、相手も変わって来る様なおかげが生まれる。徳で育てる徳育である。自他共に助かっていく道なのである。そういう私は兼ね合いの所。歯がゆい事じゃなと思う、その思う合間の所をです。只思い続けるだけじゃなくて、そこん所をそう思うなら思うほど。
 その事に取り組んでどうぞ、私が修行を致します。私が研きますと言う様な頂き方です。そこには歯がゆさと言うものは無い。愈々心は肥えていく。信心が肥えていくと言う事は、そう言う事だと思うのです。信心によって力を受けるとか徳を受けると言う事は、そういう頂き方こそ徳を受けるのだと思う。その徳が育てるいわゆる徳育である。偉い先生の所では良い信者が育つ、良い修行生が育つ。
 先生が喧しく言うて育てなさるとじゃ無い。その立派な先生という方は立派な信心、立派なお徳を備えておられるから、良い信者が育ち、良い修行生が育つと言う事になるのです。それを家庭に置き換えても同じです。皆さんが一人一人持っておられる、歯がゆい事だという所があろうと思う。だから歯がゆいからと言うて、お願いするだけではいけん。それは寝ながら言うておるようなものである。
 起き上がって本気でその事を修行と共に、それを取り組んでいく。歯がゆいのではないそのおかげで自分が修行が出来るという頂き方こそ、愈々心が豊かに、信心が肥えてくるのです。その向こうにひとりでに物ができると言う事は、もう徳の世界だと思う。ひとりでに物が出来るような道理なのですから。ひとりでに物が出来るような、一つ根肥しをさせて頂いての信心を頂きたいですね。
   どうぞ。